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アイヌ民族の音楽を考える〜世界民族の在り方とは〜

文学部一年 門馬理恵

 

 

 アイヌ民族の音楽を日常的に聴いている人はどれくらいいるのだろう。アイヌ民族の音楽を聴くと、その独特の節回しや、普段私たちが聴いたことのないような楽器の音色から、風の音や動物の鳴き声が連想され、まるで自分の周りが自然に溢れているような気がする。そして、そのなかで流れる何かが振動する音。このような音は、私がいままで似た音を聴いたことがあっただろうかと思わず振り返ってみずにはいられなかった。

調べてみると、このような不思議な音を出すものは「ムックリ」という名の、15センチメートルほどの長さの薄い竹片に、振動弁を切り出したものであり、紐を引くことによって弁を震わせ音を出すアイヌ民族の音楽を代表する楽器の一つであるとわかった。さらに驚くべきことにこのムックリという楽器はアイヌ民族独自の楽器だと思っていたが、この楽器と似たものが、中央アジアのキルギスや、ウラル山脈の麓のバシコルト(バシキール)、東シベリアのエヴェンキなどの北方アジア諸民族の音楽においても使用されているというのである。このように、一見独特に見える文化は、意外なことに私たちの想像を超え、世界の至るところでつながりをもっているようである。

 

私たちにとって音楽とは何だろう。私たちの周りは常に音楽で満ち溢れている。ちょっと買い物をしようと近所のスーパーに立ち寄れば、必ずといっていいほど音楽が流れ、買い物客達は特別な注意を払うことはなくても、無意識的にその音楽を聴いている。その種類はクラシックだったり、ポップミュージックだったりと様々である。どの種類の音楽であれ、ひとつひとつの音や歌詞、そして音楽の流れそのものに作り手の気持ちやメッセージが込められている点で音楽は表現の場であると言ってよいだろう。

多くの場合、お店で流れている音楽は必ず私たちがどこかで聞いたことのあるような馴染みのある音楽であり、その私たちの周りで流れている曲が、もし、あまり聴いたことのないアイヌ民族の音楽であったならば、その独特な言葉の響き、節回しから、私たちが流れている曲に耳を傾け、その内容を理解することはできるだろうか。

これに対して、日常生活において、アイヌの神謡をはじめとする口承文芸を聴く機会はあまりない。そもそも神謡とは何なのか理解している人も少ないだろう。また、たとえ聴いたとしても日本語とアイヌ語には大きな違いがあり、アイヌ語を学んだ者でなければその内容を理解することは難しい。言葉の違いの他にも、俗に言う文化の違いというものもその理解を困難にしている原因としてあげられるだろう。

しかし、内容を完全に理解することなしに音楽、すなわちここにおいてはアイヌの口承文芸を楽しむことは誰にでも可能であると考える。私たちは普段、文章を読んでいて今まで聞いたことのない言葉や読めない漢字に出会っても、文脈からその意味や読みを想像し、その文章を楽しむことができる。よって、このことと同様に、私たちは深く理解することなしに“予測する力”によって音楽を楽しむことができると考えるためである。

また、もしかすると、聴く人によってはアイヌ民族の音楽を“これは音楽ではない!”と主張する人もいるかもしれない。「音楽」の語は世界のあちこちで異なった意味を持ち、私たちが「音楽」として理解しているものが、実は音楽ではない場合もあるためである。しかし、そのような反論が出たとしても、アイヌ民族の音楽にはアイヌの生き方そのものが反映され、多くのメッセージが込められているという点で一種の表現であると言え、その点ではその人が音楽であると主張する類のものと何ら変わりないだろう。

 このように、アイヌの神謡は“音楽”と言えると考えられる。しかしこの“音楽”の詞が誰によってつくられ、そのメロディーが誰によってつくられたのかは謎に包まれている。さらに言えば、今伝えられている神謡が、本来のものと大いに異なる可能性もある。しかし、今伝えられているものも、本来のものも発生源は同じであるに違いない。その発生源は一体何だろう。その説の一つとして、民族音楽学者のボールマンは『神話ではしばしば超自然的存在が人間に音楽を贈り物として与える』と述べている。私は、この言葉における“超自然的存在”という言葉に注目してみたい。

 

 これについて考えるために、アイヌ民族の信仰について追究してみる。アイヌ民族は太陽、月、星、山、川や人間の作った道具など、あらゆるものに霊の存在を認め、それらを神の化身であると考えていた。神々は普段、その本国では人間と全く同じ姿で、そして人間とほとんど変わらない生活を営んでいるとされ、その神々は時を決めて、樹木や動物などに姿を変えて人間界を訪れる。例えば、熊は肉や皮を背負った、山の神の化身であるとされている。熊の場合、その肉と皮を土産として人間に与えることで(すなわち熊が死ぬことによって)その神は肉体から解放され、本来の霊的な姿に立ち返り、人間の酋長の家に客として滞在する。そして数日したらお土産を持って本国へ帰る。人間は、神々が人間界に遊びに来てくれたことに対し、感謝の言葉と再来を願う祈りとともに、人間界から神々の世界へと送り出すのである。酒や米などのたくさんの土産物を持って帰った神々は、人間界の世界が豊かで楽しいことを他の神々に語り聞かせる。それを聞いたほかの神々も人間界を訪れる。そして人間界を度々訪れて、人間によって何度も送られた神は、神々の世界での格もあがる。人間と神々とは「送り」を通してその関係が良好に保たれたのである。

 アイヌ神謡集(知里幸惠:1999)に収録されている「梟の神の自ら歌った謡『銀の滴降る降るまわりに』」においても、同様の話が収められている。ここでは、金持ちの子供にいじめられている貧乏な子供が放った矢を受け取った梟(これは梟の死を意味する)が、その貧乏な子供の家で神として崇められ、その両親に何度も礼拝を重ねられて、彼らが寝ている間に家を宝物で満たす。次の朝彼らが起きると一層礼拝を重ねられ、イナウで飾り立てられ、酒を供えられ、数日後自分の世界に戻る。そこで色々な神を呼んで酒宴を開き、人間の村で生じた話をし、他の神さまに褒め称えられるという内容である。

 

ここで興味深いのは、神々は普段人間とほとんど変わらない生活を営み、姿を変えて人間界を訪れるという点である。キリスト教においては、神は宇宙を創造して支配する、全知全能の絶対者とされている。この違いは一体どこから来るのだろうか。彼らの生み出した空想なのだろうか。

驚くべきことに、「和人は舟を食う」(知里真志保:2000)によれば、アイヌの神々に対する考えは決して空想ではなく、日本人をはじめとしたその他の異民族との交易関係が大いに関係していたというのである。

説明すると、アイヌの酋長は普段、アイヌ部落において、狩猟などを行っている。彼は時を決めて和人の村へ交易に出かける。その際に彼は晴れ着を身につけ、かねて稼ぎ貯めてあった毛皮などのお土産を差し出す。そして客として和人の家に滞在し、数日したら米や煙草など、様々な品物を土産として故郷の村に帰り、宴会を開いて、和人の村で見聞したことを語り、土産の品を分け、酋長としての権威を高めるというものである。この酋長の在り方と、上記の熊の例は似ている点が多くあり、彼らの口承文芸は、異民族との関係が多いに関係していたことがわかる。しかし、ここで疑問が生じる。なぜ彼らは異民族との関係を神との関係にたとえたのだろうか。

これについて私は、アイヌの人にはもともと神に対する信仰が深く、自分たちの特産物と様々なものを交換し、自分たちの生活を豊かにしてくれる和人をはじめとした異民族に対して感謝の気持ちを抱き、その気持ちを自らの社会における最も偉大な対象である神に例えて表現したと考える。その理由をアイヌ語の特徴から述べていきたい。

アイヌ語には日常語(口語、ふつうの言葉yayan-itak)に対し、雅語(飾った言葉a-tome-itak)というものが存在する。雅語は正式の会釈・会見の詞、誦呪の詞、神謡などの詞において使われるものである。(吉成直樹:2007)

アイヌ民族にはイオマンテ(動物の霊送り)やイチャルパ(祖先を供養する儀式)など様々な儀式があり、そのような儀式の際には正装して身を整える風習がある。これと同様に、感謝の気持ちを伝えるために日常語を用い、神謡などに用いる雅語を使ったと考えるのである。

また、アイヌ語には、明確に過去、現在、未来という時制を使い分ける日本語や英語と違って、過去という時制がない。だから私は、アイヌ語は過去を表わすのではなく、現在、そして未来を表現したものであり、神謡において「感謝しました」という過去における気持ちを表現するのではなく、「今も、これからもずっと感謝しています。そしてこれからもよろしくお願いします」という気持ちを表現しようとする意図が込められていると考える。今現在のことだけでなく、未来に向けての行為も含まれているのだ。

                                                              

次に、アイヌの神謡における、多民族との関連性を「アイヌの歌の旋律構造について」(千葉伸彦:1996)を参考にして検討してみる。

 モントリオール大学の研究グループによるCanadian Inuitのkatajjaq(=いわゆる、喉遊びthroat-games、声遊びvocal-games)についての一連の研究報告によれば、katajjaqの旋律は、有声音―無性音、呼気―吸気、をはじめとした、様々な声の要素の変化として捉えられる、とされている。これらはアイヌの歌唱における旋律構造にも当てはまる。また、同様の特徴は北方系のいわゆる喉遊びの形態の歌唱の中に見出すことができるという。旋律構造以外にかけ声においても類似性が見られ、アイヌと北方系諸民族の関連自体は、明らかになる。

 また、アイヌ音楽の旋律中に現れる「音程」は、次のように段階的にとらえられている。

(い)固定した音程(五音音階などの「音階」として捉えられる)。

(ろ)厳密でない音程(ある程度に固定化した音程、ゆれ幅のある音程)。

(は)発声(音色)の付随要素としての総体的な音高差(音程に関与性がない)。

以上より、「音程要素」(ここでいう音程要素とは、音の高さの総体的位置関係による旋律音の区別である。)による歌唱には、日本など外部からの影響による比較的近代的特徴が含まれていると考えられている。アイヌの音楽においても異民族との関係が関わっていたのである。

 

では彼らの音楽と類似した例をあげてみよう。スペインを代表するあの情熱的なフラメンコも、実はスペインだけで発展していったのではなく、もとはインド北西部に起源をもつジプシーの音楽から影響を受けて発展していったものである。短い旋律が、全く変わることなく、初めはゆっくり流れ、徐々にはやくなっていくところにジプシー音楽の特徴がある。同じ旋律が何度も何度も繰り返されることによって、その旋律が感覚として頭に植えつけられる効果がある。それによって私たちの中にはまるで音楽が“廻って”いるような感覚が生じる。

 

この“廻る”という言葉をアイヌの音楽に当てはめて考えてみたい。アイヌ民族の音楽は独特であると先に述べたが、しかし、聴いているうちに、速さはジプシーの音楽のように変わることがないにしても、ある旋律が何度も何度も繰り返されていることに気付く。そのことによって、歌全体の内容は理解できないが、その旋律が私たちの頭に根付かせられる。

アイヌの神謡にはサケヘ(繰り返し句)というものがある。例えば“Hotenao”は小狼の鳴き声であり、この声が神謡の中において、何度も繰り返されるのである。この繰り返しによっても、その声が私たちの頭の中に浸透する。語り手は動物や鳥、魔物、すなわち神々の世界を通訳する技術者としての役割を果たしているのだ。

アイヌの世界では、先程も述べたように、動物は神が姿を変えたものである。動物の鳴き声、すなわち神の声を繰り返すことによって、その存在を私たちに訴えかけていると考えられる。また、繰り返すことで、神が姿を変えて私たち人間の住む世界にやってきて、人間に送られて再び神の世界に帰っていき、それが何度も繰り返されるという“廻る”という言葉が再び私たちの中に浮かんでくる。

 

また、多くの場合、音楽にはある拍子が存在する。拍子が果たす役割とは何だろう。確かに、拍子がなくても、メロディーだけの歌も存在するが、拍子があるからこそ、音に重みが出てその詞は際立つ。

私たちはコンサートに行ったとき、演奏者に対して演奏終了後に拍手を送る。この行為は演奏者を称えるための行為であり、これと同じ意味が拍子にも含まれると考えられる。ここにおいて演奏者が称えられる理由は、演奏者が音楽という手段を用いて、あるメッセージを送ったからであり、(それは作曲者から発せられるメッセージの場合もあれば、演奏者から発せられるメッセージの場合もある。)聴き手はそのメッセージを受けった証として拍手をするようにも考えられる。

祭りなど多くの儀式においても音楽が流れた場合、その音楽は神をこちらの人間界に呼びせるために流すものである。つまり、音楽を通して、「神よ来い」というメッセージを発信しているのだ。また、参加者は手を叩くなどをして、その祭りに参加する。この手を叩くという行為によって、参加者は自分も神が来るのを待ち望んでいるというメッセージを発しているのだ。

以上のことからわかるように、拍子をとる、拍手をするといった手を叩く行為から、称えられる側の存在と、称える側の存在は、どちらも欠くことの出来ないものであるということがわかる。そしてこの、両者が必要であるということは、アイヌ民族においても、クラシック音楽においてもジプシーの音楽においてもすべての音楽において当てはまる。したがって、この両者の関係は世界の音楽に共通しているのである。

 

世界の音楽がこのように私たちが思いつかないような意外なところで共通点を持っているのは、ある民族が、他の民族の音楽とふとした拍子に出会った時に、無意識のうちに自分の民族の音楽と、他の民族の音楽における類似点を見つけ、その他の点を吸収していくためと考えられる。

この類似点を吸収していく行為は、吸収する側が自分の民族音楽に取り入れようと意図的に行う行動ではなく、なんらかの形、例えば旋律を繰り返したり、日常的に聴かないような不思議な音、例えばなにかがこすれる音だったり、なにかが破れるような音だったりと、一見私たちの間で音楽として認識されていないような音を楽器にして表現することで相手をあっと言わせる音を生み出したりすることで、その旋律の相手の頭の中に刻みこみ、その旋律を取り入れさせようという吸収させる側の意図が働いていると考えられる。この行動は私たちが音楽を自分の感じることや、神や別の対象に対する思いを表現するという場として使う限り世界中どの場所においても生じうる現象であると言える。

 

その点で世界の音楽は必ずどこかでつながっているのである。したがって、自分の民族の音楽を守るためといって、多民族の音楽の影響を受けるのを防ごうとその音楽を拒否することは不可能なことであり、ある民族の音楽は、世界に生きる人間全員で継承していくものなのである。この意識がなければ、ある地域だけで近代化が進んでいってその民族音楽が消滅してしまう可能性だってあるのだ。私は個々の民族は、単なる総和によって世界を形成しているのではなく、お互いにメッセージを発し、そして受け取るというなんらかの相互関係を持っているからこそ世界を形成していると考える。そして、この民族間の相互関係から生じる“パワー”こそ、音楽を形成する“超自然的存在”であると考えられる。したがってアイヌ民族が欠けても、ジプシーが欠けても世界は成立しない。どの民族が欠けることも許されない。そして、文句は書きとめることが出来きるために消滅を未然に防ぎとめることができるが、音楽的要素は書きとめることが不可能であるためにいかなる手段を用いてでも継承していかねばならないと思うのだ。

 

《参考文献》

・フィリップ・V・ボールマン(2006)「ワールドミュージック/世界音楽入門」音楽之友社

・吉成直樹(2007)「声とかたちのアイヌ・琉球史」森話社

・千葉伸彦(1996)「アイヌの歌の旋律構造について」アカデミア・ミュージック社

・門別町郷土史研究会(1966)「沙流アイヌの歌謡―録音資料目録とその解説―」

・湯原公造(2004)「別冊太陽 先住民アイヌ民族」平凡社

・知里真志保(2000)「和人は舟を食う」北海道出版企画センター

・知里幸惠編訳(1995)「アイヌ神謡集」岩波文庫

     Th.W.アドルノ(1999)「音楽社会学序説」平凡社